艦隊これくしょんより、暁型二番艦の響です。


http://f.hatena.ne.jp/htj/20130831215754


初期にやってきた中で何となく活躍して、そのままうちの艦隊の旗艦となりました。
(初期選択は漣でしたが、いまや完全に遠征組に)
どうしても初期に加入するせいか、駆逐艦に愛着が沸きがちで戦力的には難あり。
ゲームの方はいまだ2-4で足踏み中。戦艦か空母もう一隻育てないと厳しそう…


というわけで、絵置き場もblogの方に移行することにしました。
まあそんなに活用されることも無いでしょうけど。

ニコニコ動画(Ω)

少なくとも娯楽の分野においてはお金は殆ど必要ない状態になりつつあるよな。ユーザーが自らコンテンツを作るから、インフラを支えるためのお金を皆で捻出すれば事足りる。娯楽にそれだけ時間を割けるくらいには人々が裕福になったってことなんだろうけど。


つまりは単に社会の効率化が進んだということだろうし、他の分野にこの構造が展開されていかない道理はないはず。


まあ究極的には労働という概念が趣味に内包されることになるんだろう。各が有り余る時間を自分のやりたいことに使い、それで世界に必要なものが満ち、循環していくならまあ人間社会としては概ね理想的だよね。


具体的な方法はさておき、今後の方向性としては、とりあえずは個人で製造できるものを増やしていく動きが肝要なのかなあという気はする。

ハイドロカルチャー

自室のレイアウト修正を始めて、飽きそうになりつつもなんやかんやで1ヶ月くらい継続してるのだけど、未だに新たな箱物は一切購入しておらずクリーンアップ&デフラグに終始している。入れ物を先に用意するか、入れる物を先に決めるか、特になんの拘りもないから決めにくいんだよね。じゃあ別にレイアウトなんぞ弄らんでもいいではないかという話になるけど、まあ生き物は呼吸せねば生きていけないのであり、いまのおれにはちょっと酸素が足りないのだ。


とはいえ、物を右から左に移動させてるだけでも意外な発掘があったり、逆に明らかに要らない物を捨てるきっかけになったりで結構片付くもの。だいぶ整頓されてきて、そろそろ手持ちの枠では収まりつかなくなってきたけど空間占有するものを購入するのは億劫、という段階。


根腐れ防止には多少水を枯らすのも必要でしょってことで、とりあえずもう少し物を減らそうかなってとこだけど、いざ選別に入ると本当に捨てられない物なんて殆どなくて、ドライすぎる環境の改善も必要ではないかと思う次第。

めんどうくさい女

なんかこってり書こうと思っていた、という感覚だけを残して失念。奥歯に挟まった物はとれても、胸のつかえはとれない。


たとえば、行きすぎた拘りというものは概ね心の余裕の無さから生じる。人格なんてその場しのぎの繰り返しで塗り重ねられた地層のようなものに過ぎないし、その全てを抱え込む必要はないのにな、と思う。彼ら彼女らは、なんらかの受け入れがたい事実と戦ってるのだろうけど、伸びきった戦線はいずれ崩壊するのみだ。


福音とは、要するに何かを忘れるための呪文であり、心を救済するのは常に忘却である。それは精神の安定稼働のためには不可欠なしくみだけど、現在の自分にとって不要あるいは有害だとしても、他人や未来の自分にとって有効かもしれないと思えば、ただ失われるのは少々勿体ない気はする。というわけで思ったことをひとつふたつ書き留めるくらい毎日だって出来るだろうにと思いつつ、気がつけば前回からすでに10日ほど経過しているわけだが、という話。

依存、生存、進化論

そりゃ環境に適応しすぎて環境変動で即全滅とかありがちすぎだし、ちまたでイメージされてるベタな進化論など神話の類であるのは自明のことだよね。


なんか現状に適応してしまうのもこだわりのなさの現れだよなと、概ね昨日の続きで。
事例については枚挙に遑がないのだけど、露骨なのだと部屋のカーテンの取り付け順が逆になっていたまま長いこと使ってたとか。たぶん購入した順序とかの関係でなんとなくそうなってたんだと思うのだけど、厚手のカーテンが外側、レースのカーテンが内側という状態で。どうも使いにくいなーと思いつつ長らく適応してたんだけど、ふと付け替え直したあとのあまりの便利さに沈黙。とかそんなん。
ライフハック的な前向きな改善事例ならいいんだけど、明らかに間違った運用に適応してると修正されたときの精神的ダメージは大きい。


なんとなくで決定された状態って、結構不便や不合理でも案外そのままになってしまうものなので、こうモチベーションが高いときにいろいろ見つけて今のうちにカイゼンしておきたい気持ちです。春です。

解釈の儀式

なんか知らないけどここのところ妙に行動的な自分を自覚。今日も、遅い時間に帰宅してから思いつきで部屋の模様替えを始めたりしていてふと気がついたんだけど、最近の行動履歴を思い返すと習慣的でない行動がどうにも多い。どういうことなのかいまいち思い当たることがなくて、自分の内側もまだまだわからないことばかりだなと思う。まあ春だしな、と思考停止するのはいかがなものか、と自重する程度には理性は働いてるはず。


別に最近気持ちに余裕があるかっていうとそんなことはなく割と低空飛行気味なんだけどね。まあ昔も今も変わらずおれを取り巻く環境は驚くほど寛容で、致命的なことなど何もないんだけど。なんでみんなこんなに親切なんだろうなほんと。


もともとおれは一つのことに慣れると同じことを繰り返す癖があって、たとえば食とかでも同じ料理を頻繁に作り続けたりとか、節分の豆とか大して美味くもないのに一袋食べきってしまうどころか毎日一袋が数日続くみたいなことを結構リアルに繰り返してる。物事に執着しがちなのかというとおそらく真逆で、ただの思考停止型の反復行動でございましょう。こだわりなんてどこにもないし、考えるのも面倒くさいしね。


しかし、せめて新しいことを求めるときは意識はクリアでなくてはまずいよな。自我の危機だろうか

ウェッジシェイプ

ながらく沈黙を保ってた人が急に語り出したりすると何となく不安になるなあとか。一般論ならまだしも自分語りなどというものはおおよそ遺書の一種だしね。


個人的にも今年は意外と日記を書く機運が高まっていて、緩やかに死期が近づいてきたような気がしないでもない。と言っても、すいぶん前から物書きの願望はあるにはあるんだけど、なかなか形にはならないってだけで。根本的な話として抑も適正がないってことではあるのだろうけど、まあ、それ故にこれまである程度無難に生きながらえてこれたのかなとは思う。