二年

震災からまる二年ということで、当時の記憶でも書き起こしておこうかと思ったけど、意外とくっきり覚えてるというか忘れそうにもないのでまあとりあえずいいかとも思う。当時はgoogletwitterのリアルタイム検索に対応していたんだけど、そこからustreamのリンクに飛んだらNHK横流し配信をいていて、それが名取川河口付近のヘリからのライブ中継、というのがおれの震災の最初の風景。金曜だったので、夜通しテレビにかじりついてたのが9.11と印象被るのだけど、9.11の時はおれは朝になってから知ったはずなので少々記憶感に捏造が入ってるっぽい。にしても映像記録とか山ほどあるし早々風化するものでもないよな。二十一世紀こそ映像の世紀だよね。


まあ、また来年思い出してみようと思う。

九州のこと

個人的すぎてだからどうした感が半端ないんだけど、どうしても九州の地理感が修正出来ない件について文字に起こしておきたかった。


■どうにも払拭できないイメージ


.   山口
. 福岡
長佐大
崎賀分
. 熊宮
. 本崎
. 鹿児
. 島


■実際のだいたいの位置関係


    山口
  福岡
.長佐賀大
 崎 熊分
.   本宮
.   鹿崎
.   児島
  

(伝わらなさそうだけど)何がいいたいかというと西側が思ってるより本州に近くて東側が遠いということ。
伊勢湾口や紀淡海峡に比べれば豊予海峡ルートの有用性は結構高い気はするんだけどねーとか思いつつ。

多層性乖離の起源

毎年のことではあるが、年明け〜3月に情緒面が不安定になりやすいのは単に環境ストレスが多いせいなんだよな状況証拠からして。そりゃそーだろって話だろうけど。


最近覚えたちょっと新しい感覚として、夢を見ていたはずがいつの間にか現実の懸念事項について考え事をしていた、というようなことがある。すなわち夢と現実のシームレス感がやばい、などと脳内オムライスに脳内ケチャップで描画してみたりしたけど、言葉に書き起こすにはなかなか難しい質感ではある。


極論をいえば、べつに半分夢のなかでふわふわ生きるとしても、それはそれでいいかなとは思うんだよね。すくなくとも、おれは他者と世界の共有ができるという幻想はもはや持ち合わせていないし、個人の世界観と、相互の世界に影響を与える物理的な干渉はある程度切り離すことが可能なんじゃないのとどこかで思ってる。これって最終的に哲学的バイオハザードに行き着くんだろうけど。


まあ、こんな持論を表明することすら環境に悪影響を及ぼすし、さまざまな物理的制約は当然あるわけで。十分な睡眠とったら精神状態が安定するとか、そりゃわかりやすいけど絶望感はあるよな。

愚者の経験、賢者の歴史

雨の降る月曜朝に限って何故か大学の単位を取りこぼした夢とともに目が覚めることが多い。つまり、仕事にも行かなきゃならない、講義も受けに行かなきゃならない。両方やらなきゃならないのが辛いところだよなー的な悩みとともに覚醒する。これ理由がわからんのだよなーと思い続けて早幾とせ。


で、ふと気付いたんだけど、そもそも卒業式の記憶とかないんだよな冷静に記憶を掘り起こしても。大学って卒業式あるよね? こうして社会人やってる以上は確かに卒業はしているはずなんだけど…とかリアルにそういうレベル。


まあ正直、全般的に実感を伴う記憶なんて殆どないんだけど、さして古くもない特徴的なイベントだし、断片的な記憶くらい見つかっても良さそうなものなんだけどな。

忘却の消失

数日前に書いた記事がうっかり消えるなど。
Twitterが落ちていて思考の垂れ流し先を見失ったとかそんな内容だった気はするけど、ぼんやりとしか思い出せず。とはいえ、まあ過去とは標準的にそんなもんだよなと、ありきたりな納得感も得られたのでまあよしとするし、せざるを得ない不可逆の世界。


録画データを整理していて未視聴のたまこま最新話を消してしまったりもしたのだけど、即ち、わんぽちで完全消去されるようなシステムはいまや当然であり、これを乱暴だと思うような価値観は、すでに時代から取り残されつつあるのだろう。



最近あった良いことは、悪いことがなかったことです。包括。

日々

こっちは1年以上更新してなかった。このペースでいくとこの日記を更新できるのもあと4,50回かと思うとどんだけ諸行無常かと。まあ最近はあまり生きていることにありがたみを感じないので、時間が早く流れてくれてもそれはそれでまあいいかとも思うのだけど。


はてな記法とかもう忘れたよ…

断裁される物語

無為に本を読み、時間を浪費することに意味があるのかという意見がある。読み終えた本は、捨てるか、譲るかすべきであり、蔵書など少なければ少ないほどいいのだと。情報は、必要なもの、価値あるものだけを抽出し、整理し、纏めあげてはじめて意味のあるものであると。


一方で、果たして人の行動にはそれほどの合理性があるのだろうかと思う。一定レベルの信念に基づいた行動ならいざ知らず、だ。曰く、人はあらゆる情報を遮断されると発狂するという。心というのものは、おそらく情報を摂取し続けなければ存続できない。本読みのような生き物は、食事をとるように、本を読み続けなければ生きていけないだけではないのか。


人は生きるために食事をとるのではない。空腹の苦痛を退けたいだけだ。食欲を満たすことと生命の維持に因果はあっても、心にとってはそんなことには意味はない。たとえば薬物中毒者が身をもって示しているように、あらゆる欲の前には、生命の維持という目的は拘束力にはならない。


情報は、心に取り込まれた時点でもはや物語の一部となる。そして、情報の価値は物語の中に限定される。個人より集団、社会、あるいは世界。より多くの人にとっての物語に有用であること、これが普遍的(と認識される)情報の価値の実態だ。そして、その価値に「価値」を見いだすことすらも、個人の物語の作用に過ぎない。


情報がなければ作用しないものがある、というのも幻想だ。あらゆる現象は、あるがままに存在し、あるがままに作用する。それを断片化し、記号化する行為は、人の心がそれを解釈するためでしかない。


情報を蒐集することも、集めた情報を整理することもしないことも、究極には等価なのだろう。すべては創作された価値であり、そこに普遍的なものなど一切は存在しない。非可逆圧縮とは、外部の定義があっての機能であり、我々が、この閉じた世界の中に在りながらにして、この世界のあらゆる構成物を圧縮し、再展開することは不可能なのだ。