断裁される物語

無為に本を読み、時間を浪費することに意味があるのかという意見がある。読み終えた本は、捨てるか、譲るかすべきであり、蔵書など少なければ少ないほどいいのだと。情報は、必要なもの、価値あるものだけを抽出し、整理し、纏めあげてはじめて意味のあるものであると。


一方で、果たして人の行動にはそれほどの合理性があるのだろうかと思う。一定レベルの信念に基づいた行動ならいざ知らず、だ。曰く、人はあらゆる情報を遮断されると発狂するという。心というのものは、おそらく情報を摂取し続けなければ存続できない。本読みのような生き物は、食事をとるように、本を読み続けなければ生きていけないだけではないのか。


人は生きるために食事をとるのではない。空腹の苦痛を退けたいだけだ。食欲を満たすことと生命の維持に因果はあっても、心にとってはそんなことには意味はない。たとえば薬物中毒者が身をもって示しているように、あらゆる欲の前には、生命の維持という目的は拘束力にはならない。


情報は、心に取り込まれた時点でもはや物語の一部となる。そして、情報の価値は物語の中に限定される。個人より集団、社会、あるいは世界。より多くの人にとっての物語に有用であること、これが普遍的(と認識される)情報の価値の実態だ。そして、その価値に「価値」を見いだすことすらも、個人の物語の作用に過ぎない。


情報がなければ作用しないものがある、というのも幻想だ。あらゆる現象は、あるがままに存在し、あるがままに作用する。それを断片化し、記号化する行為は、人の心がそれを解釈するためでしかない。


情報を蒐集することも、集めた情報を整理することもしないことも、究極には等価なのだろう。すべては創作された価値であり、そこに普遍的なものなど一切は存在しない。非可逆圧縮とは、外部の定義があっての機能であり、我々が、この閉じた世界の中に在りながらにして、この世界のあらゆる構成物を圧縮し、再展開することは不可能なのだ。