雑多なこと

幸福に満たされて生きてる人、あるいは無自覚に生きられる人ってなかなかいないよね、と今更に再認識する。それぞれの問題の質量は客観的に測定すれば程度の差はあるのだろうけど、各々が等身大の悩みを飲み下しながら何とか生きのびているという状況に変わりはない。幸福が不幸の隙間にしか存在できないというのは幻想だけど、今のところ、この世界は幻想でできていて、そして不幸に満ちている。


人生はゲームだ、生きることに意味なんて無い、おもしろおかしく生きたもん勝ちなんだよと、誰に言い聞かせてるのだろうとは思うけど、最近は何かが一周りして、その言葉の切実さとか、そう主張したくなる気持ちが、ちょっとわかるような気がしてきている。結論は一緒なんじゃないのか、世界への失望の先には、やはりそんなものしか転がっていなのではないかという予測は否定できない。


たとえ自動的であれ、あらゆる困難に粛々と立ち向かう姿はきっと尊いのだろう。近頃、自分を取り巻く世界の健気さを、どこか愛おしくすら感じる時がある。自分も、ようやくこの程度のことが、当たり前に理解できるようになったのかな、みたいなことを思う。


あらゆる現実は科学的に肯定され、蔓延する。
曰く、幸福は化学反応である。自我は錯覚である。世界は認識である。子は親の生きる理由のために存在し、親の抱えた苦悩を一生かけて繰り返す。果てに社会は滅び、自然は破壊され、地球は太陽に飲み込まれ、宇宙は冷えて固まる。不幸を積み上げて、そして最後には何も残らないのだと。


まあよくみんな黙々と生き続けてるよなあとは思うけど、これって状態を維持してるだけなんだよねきっと、と思う。昨日生きていたから今日も生きてる、というだけ。幸福も不幸も関係なく、ただ、それがあるがままの状態だということ。あるいは、死ぬ気力がない、でもいいけど。レミング集団自殺などしない。


幸福を信仰できなくなったら、何を糧に生きればいいのだろうと思う。糧などなくとも勝手に栄えて、そして勝手に滅ぶだけなのだろうか。このすべてはいったい何なのか、という疑問は保留されたまま世界は動き続けている。理解はできないけれど、そんなもんかなと考える自分もいる。許容?絶望?あるいは諦観なのだろうか。
これは仕方のないことなのだろうか。