平安京のミミック

さて九月。twitterはじめてから露骨に日記の更新が減ったけど、昔の日記をみても中身の程度はtwitterでのつぶやきと大差ないので別にいいのかという気はする。しかしtwitterに垂れ流した情報って極端に重みがないんだよな同じこと書いても。まあ単に読み手の気分の問題なんだろうけど。いや、というか気分の問題って最も深刻な問題のひとつだよな。


なんだろな、twitterってまずTLの設計からして価値の創出を偶然に頼りすぎてる気がするんだよな。計画性がないというか。つまりネットの情報の制御をあきらめた人の発想なんだろう。総量を変えず、小さくまとまるかわりに広範囲を大雑把にすくい上げるという転換。ゆるく他者間の同期をとる構造はそういう発想の中で本来付属的に生まれたものだったんだろうと思う。ニコニコ動画が意図的にやってるのとは対照的に。流行った理由は似たようなものなんだろうけど。


twitterにかいたメモをふくらまして日記にすればいいのかという気もするけど、大半が妄想タグをつけることになりそうで、つまり日記とは別のものになりそうな気がする。まあ、もともと思考に纏まりがないほうなので、きちんと文章化する癖は付けた方がいいとは思ってはいるんだよな。個人的な問題意識として。



いつの間にはてなの右上は「日記を書く」から「記事を書く」になったんだろか。…前からだっけ?