グッバイ・アーチ

ことばを操るひとが、自分の表現するものに実体がないといい、絵や音楽への羨望を表明する。


端的に言って、それはことばが絵や音楽に比べて、受け手の解釈に大きく影響を受けるから、あるいはそういう現実を、皆がどこかで理解しつつあるからなんだろう。意味や解釈の不定性、正しく評価出来ないという意識が、ことばを表現の下層に位置づける。


絵や音楽は五感で感じるものだけど、ことばは脳の全然違う場所で全然違う処理をされる。そもそも評価の基準が違って然るべきなのに、ことばを五感水準の感性で評価しようとするからストレスが生じる。ことばばかりが、中二中二と騒がれるけど、絵や音楽はプリミティブであるが故に、意味もしくは意図とか概念とかを定量的なイメージに還元できないからそういう事態を免れてるに過ぎない。裏返せば、中二よりずっと低いレベルの感性でしか他者に理解されないってことでもある。


本来、ことばが伝えるべき感性は、科学がときに見せる印象と同じようなものだと思ってる。例えば、洗練された数式や構造やシステムが与える奇妙な感動のような、世界ががっちり噛み合ったような高揚感。
ことばが正しく伝わらないのは、ことばが不完全だから。それは、科学がその不完全さ故に、宇宙を正しく記述出来ないのと同じこと。科学は外的な世界を、ことばは内的な世界を、自ら解体し拡張していく。今、ことばが不完全であることに絶望する必要はない。ことばは進化していくものだから。


ことばは、ひとの生活とともにあるものだから、評価の視線が自然と厳しくなるのは仕方ない。でもその代わりに、だからこそ、世界のイメージを根底から塗り替えるような、センス・オブ・ワンダーを秘めているのだと思う。