エキセントリックメガストラクチャー

久しぶりに意識のことについてもそもそ考えたりしていた。こう素人外野が垂れ流す意見て往々にして筋違いなものになりがちなんだけどなーという危機感はありつつ、もやもやして仕方ないので寛大なるインターネッツに吐き出してしまおうという算段。思いつきの程度からいってtwitterで十分の垂れ流しなのだけど、一言で片付けられないので日記に書くしかないという。


で、現象的意識を機能的意識の関係のこと。そもそも「機能」と「現象」は概念(ちょうどいい言葉がないので仮に)のレイヤが違うでしょという話。例えば、「紙を切る」という「機能」と「鋏で切る」という「現象」があるけど、この機能に対する因果は「カッターで切る」という現象でも置き換えられる。現象→機能の因果関係はあるけど、機能→現象の因果関係はない。つまりこれを、機能は現象の下位レイヤに属している、というふうに考えるのね。


機能的意識が物理的に観測できる現象、ひいてはその現象を説明する「法則」であるなら、現象的意識ってなによ?という話になるのだけど、そのままシフトさせれば、「法則」の上位レイヤにある「何か」ってことになる。普通に考えると「定義」のレイヤとでも呼べばいいのか(いまいちしっくり来ないけど)。ある法則は、原理、定理と呼ぶようなもので説明されるけど、この辺をひっくるめて「定義」ってことで。定義→法則→現象→機能の因果関係はあるけど、機能→現象→法則→定義の因果関係はない。


つまり、現象的意識の問題って、「意識の定義」を問題にしているようにしか見えないんだよな。例えば、なぜこの世界は空間3次元+時間1次元なのか?あるいはなぜ粒子と波動なのか?でもいいけどそれと同質の。それって前提条件に対する不信だよね。このへんをたぶん何となく理解しているひとたちはつまらないこと議論しているなーという態度なんだと思う。


たとえば、垂直に浮かぶ円柱があるとき、真上から光を当てた場合のみ水平面に円形の影が生じるように、おれらが認識するすべてというのは、何らかの前提条件があってはじめて現れてくるものなのよ。この世界(に対するおれらの認識)も、宇宙の持つ無数の要素の一部を投影したものにすぎなくて、なぜ自分が認識する世界がこの形なのかという議論にきっと意味なんてないんだと思う。宇宙では、今もまさにあらゆる定義によるあらゆる世界が同時に進行していて(まあこの言い方だと、この世界と同じ時間軸が定義されてる場合だけになってしまうけども)、それはどこかに必ず存在する奇跡のひとつなんだろうから。


まあなにしろ、この手の議論が噛み合わない理由の大半は言葉の定義の曖昧さからくるもので、それってつまり人の概念の未熟さが原因なんだよな。だから、いずれ人の概念が成熟してくれば、最低限、腑に落ちる説明くらいはできるようになるんだろうとは思ってる。