ふつかよい

ふと喜怒哀楽という文字を見て、この中で当たってるのは「哀」だけだよなあと思い浮かぶ。何があたりで外れなのか知らないし脈絡のなさも極まってる気がするけど、まあよくよく振り返るとおれの思考は本来いつもこんな感じかも知れない。兎も角、何か他の三つがやおらプリミティブなのに一個だけ変なのが混じってる。喜怒「悲」楽なら釣り合いがとれてる気はするけど。単に語呂が悪いから同じ読みの文字を充てたんだろうか。あるいは字の使われ方が変化しただけかも知れないけど。
少なくともおれにとって、哀しいという感情はちょっと混沌としている。たとえば、山を貫く鉄道であるとか、3月に降る雪であるとか、朝の交通渋滞であるとか、要するに無常感なのかというと8割くらいはそうなのかなという気はする。
過去と未来と自己を俯瞰して、悦に入っているんだろうか。ゲラゲライライラショボショボニヤニヤする自分をさめざめと見下ろして、下らないとは思わないけどまあずいぶんとシンプルだよねとは思い、おれはおれが何かの一部にすぎないことを自覚する。自分自身が望んだ結果としてここにいるわけではないけど、とはいえせいぜい時計が時を刻み続ける程度の仁義はあってもいいだろうと思う。つまり何なのかというと、たぶんこれはおれがおれでありながら生きていくための個人的な機能なのだろう。
まあ、哀しいと思うことはこころのいち機能ではあるけど、じぶんという概念があってはじめて必要とされる特殊な感情なのかなあという感じで、何の話だったかというとたぶん喜怒哀楽に対する違和感のはなしなのだった。