魂のセントラルドグマ

ほぼ全ての肯定的な感覚は幸福感に帰結するとして、われわれは幸福感が何を目的とした機能であるか大体わかっているつもりであるし、それが目指す目的を理性的な判断によって実行することも概ね可能だと思っている(と少なくともおれは思う)のだけど、それでもなお幸福感をほぼ絶対的判断基準としてしまうのはなぜだろう。ただ幸福感を得たいだけなら薬物で駄目なのはなぜだろう。おれたちが無条件に信仰する価値基準に存在する明白な論理的矛盾に対し、これほど露骨に気づかないふりができてしまうのはなぜだろう。「自然」に対する絶対的な信仰はどこから来るのだろう。たぶんこれは心あるいは新しい脳が作り出したものに対する純粋な否定だ。でも、自然を信仰するのもやはり心自身のようで、おれには体と心の対立ではなく心自身の葛藤のように思える。生物としての人類と、おれたちの心は異なる原理に従う異なる存在で、現在の状態は未発達ではなくジレンマなのか。例えば生物としての人類に最適化された脳は心の存在には適さないのか。